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  • 翔 山﨑

シリーズ伝説の技師 八田與一





「お前はバカなのか?」


台湾総督府、土木課長の山形要介は、ギラギラした目で図面を広げる男に、思わずそう言った。

男の名は八田與一。

東京帝都大学工学部土木課を出た秀才で、28歳で桃園大圳の水利工事を成功させつつあり、高い評価を受けていた。

大きなダムを造らず、大小のため池を活用して、貯水量を増やす画期的な工事は、世界的にも例を見ない方法だった。

桃園の大灌漑工事に八田を抜擢したのはそもそも山形であったが、こうも大胆な案を叩きつけてこようとは。


当時、台湾を統治していた日本では、しかし深刻な米不足に悩まされていた。国内消費の大部分を輸入に頼る脆弱な供給体制であったのである。

1918年に米騒動が起きると、本国は台湾総督府に米の増産を必死になって要請してきた。

しかし米の増産を行うには大灌漑工事が必要不可欠だった。


「嘉南平原では広大な土地が不毛の地として放置されています。農民は飲み水にも困るような劣悪な環境で苦しんでいます。

ここに水路を引けば、きっと台湾最大の緑地になります」

「しかし、お前、7万5000ヘクタールだぞ?桃園の2万2000ヘクタールでも手一杯だというのに」

「できます!」

「うぐ・・・」


そもそも嘉義庁長の相賀照郷の要請で、桃園埤圳から2週間の期限付きで八田を嘉南の調査に行かせたのも山形であった。


「下村長官に上げてみるが、どうなるか分からんぞ?」


それほど八田の出した「官田渓埤圳工事計画」は、前代未聞の大工事だった。


数日後、八田は総督府の長官室に呼ばれていた。


「米の増産とサトウキビの増産をするためのかんがい施設を考えてくれ」


八田の案は通ったのだ。


八田はサトウキビの増産のためになんと更に15万ヘクタールまで計画を広げた。


これには本国の国会が難色を示した。調査が不十分だというのである。

八田は60名の技師たちと不眠不休で半年間徹底的に現地を調査・測量して計画を立て直した。


半年後、八田が総督府に持ち帰った設計図は、かんがい面積15万ヘクタール、水路の延長1万6000キロメートル、工事期間およそ6年という規格外の大工事計画になっていた。


「お前、これ水源はどうするんだよ」


山形は更に膨れ上がった大計画に呆れ返った。


「濁水渓からの直接取水で5万2000ヘクタール、それに官田渓に造るダムから9万8000ヘクタールのかんがいを考えています」


「ちょ、ちょっと待て、お前それ、ダムの規模は?」


「有効貯水量約1億5000万トンのダムを半射水式で造ろうと考えています」


「い、一億5000万トン。いや、無理だ無理。図面だけで何百枚になることか」


「ですので、引きました」


「は?」


ドン、と机に置かれたのは、300枚もの図面だった。


(こいつはバカじゃない。狂人だ)


堰堤の長さ、実に1,273メートル、高さなんと56メートル、底部の幅が303メートル、そして、頂部の幅は9メートルという超巨大な堰堤の図面だった。日本どころの騒ぎではない。世界のどの国を探しても、こんな規模のダムを設計したものなどいはしまい。


その場にいた技師たちが次々と質問をする。

全員が超一流の土木技術者である。そして目の前にあるのは荒唐無稽とも思える図面である。舌鋒鋭く繰り出されるすべての質問に、しかし八田はよどみなく答えた。


一通りの質問攻勢が終わった。出来てしまうのかもしれない。だが、こんな計画に予算がつくのか?

そして、下村宏長官がおもむろに口を開いた。


「この規模の工事は、内地にあるのか?」


あるわけがない。世界中どこを探してもないのだ。それを聞くと、下村は口の端をゆがめた。


「じゃあ、愉快じゃないか。内地にもない巨大工事を台湾でやるんだ。金のことはなんとかする。絶対に成功させてくれたまえよ」


その場にいる全員が耳を疑った。いや、全員ではない。ただ一人、実現を信じた八田を除いて。


こうして八田案は台湾総督赤石元二郎によって第42帝国議会に提出された。米騒動でとにかくコメの生産能力が欲しい議会はこれを承認。通過、成立させたのである。

ただし、総督府の直轄工事ではなく、民間工事として発注し、これを総督府が監督することになった。


その為につくられた、「公共埤圳嘉南大圳組合」に八田は出向し、烏山頭出張所長として工事を指揮することになった。


八田は様々な初めてをやってのけた。

まずアメリカに行って台湾どころか日本の誰もみたことがないような大型土木機械を購入してきた。これからは人力ではなく機械の時代だというのである。

また福利厚生に力を入れ、68棟の宿舎、200戸あまりの部屋を新築した。

工事を請け負った大倉土木組(のちの大成建設)の倉庫や事務所、それに烏山頭出張所を加えると、常時約1000人が暮らす町が出来上がった。


不幸もあった。


工事をはじめて2年目、隧道工事中に噴出してきた石油ガスに引火、大爆発が起こり多くの命が犠牲になった。

関東大震災が起こると予算が減らされ、泣く泣く職員の半数を解雇した。

予定工期は震災の影響で延長され、10年もの歳月が流れていた。


1930年5月10日、殉工碑に刻まれた134名の名前とともに、世界の土木史に残る大工事は竣工した。

3年後、嘉南平原は台湾最大の農業生産拠点となった。もう、飲み水に困る農民はいなかった。


八田は生涯土木技術を愛し、台湾を愛した。その後も多くの土木工事に携わり、


太平洋戦争がはじまると、軍の都合でフィリピンの灌漑施設の調査の命を受けた八田は、しかし1942年4月20日、航海中に米軍の雷撃を受けて、東シナ海に消えた。

享年56歳だった。




参考文献


nippon.com 「台湾を変えた日本人シリーズ:不毛の大地を緑野に変えた八田與一。」古川勝三


※本稿は参考文献をもとに筆者が想像を交えて書いたものです。




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